03.03. [概説]1834年王国憲章

2003.12.23

03.03. [概説]1834年王国憲章

(1)制定の経緯

国王フェルナンド7世の死後は、幼君イサベル2世の摂政マリア・クリスティーナが、王国の事実上の支配者となった。摂政は自由主義穏健派と手を組み、マルティネス・デ・ラ・ロサを新首相に任命して、新憲法の起草を委ねた。新憲法は、1834年4月10日、「国会召集のための王国憲章」として公布された。

(2)特色

①一般的性格
マルティネス・デ・ラ・ロサは、フランスの1814年憲章(シャルト)を念頭に置き、「憲法」(コンスティトゥシオン)という名称を意図的に避けた。王国憲章の性格については、大臣の請願により国王が制定した欽定憲章とする見方、国王と国民との間の協約憲章とする見方、さらに、国王が自らの意思に反して国会の召集を強制されたという意味で、国王に対する「押しつけ憲法」とする見方などがある。いずれにせよ、フランスの自由主義純理派の理論や、イギリスの憲法原理など、自由主義穏健派の思想を強く反映し、きわめて制限的な政治参加の制度を有する伝統的君主制の色合いの濃い憲法となっている。
この憲章は国会の召集を目的としたものであるため、基本的には、王国の統治機構を概略的に規定するにとどまる。憲章改正の手続に関する規定もないので、軟性憲法といえる。また、権利宣言をもたないことから、国民主権原理を暗黙のうちに否定しているとさえいわれ、それを理由に王国憲章を「憲法」と認めない論者が多い。

②統治機構
王国憲章は、国会と国王による主権共有の伝統に根ざした統治機構を定め、スペインで最初に二院制の国会を導入した。
[立法権] 国会(コルテス・ヘネラーレス)は、貴族院及び衆議院の両院で構成される」(2条)。貴族院は、聖職者や貴族はもとより、あらゆる分野の社会的エリート層の中から国王により任命された議員で構成される(3〜8条)。一方、衆議院議員は選挙で選ばれる(13条)が、被選挙資格には所得によるきびしい制限が課せられ(14条)、1834年5月20日の政令で導入された選挙制度も、有権者を高額納税者に限定する制限・間接選挙制を定めていた。両院は権限においてほぼ対等であるが、国王が貴族院議員の任命権を有し、しかも貴族院に定数はないことから、両院の関係は、結局は国王の側により有利に働く。
国会の主な権限は、課税承認権である(34条、35条)。しかし国会は、立法機関でありながら法律案の提出権をもたず、課税も含め、「王令により明白に付託されていない案件は、これを審議することができない」(31条)。
[執行権] 国王の権限に関する条項の多くは、王権の強化にとって決定的な意味をもっている。それは前述の貴族院議員任命権や法律案提出権をはじめ、各議院の正副議長の任命権(12条、21条)、国会を召集、停会及び解散する権限(24条)、絶対的拒否権と解される法律の不裁可権(33条)などである。
執行権にかかわる新機軸としては、スペインで初めて内閣を立憲化したことが注目される(26条、36条、37条、40条)。もっとも、国会に対する内閣の責任や、それを実効化する方法のことまでが明記されているわけではない。
[諸権力間の関係] 国王と国会の関係は、国王の圧倒的優位によって特徴づけられる。国会が最終的な決定権を有しているのは、課税承認の案件ただ一つである(34条)。

(3)運用

国王の国会解散権は、王国憲章の下で1836年5月に初めて実際に行使された。しかし、選挙に敗れた自由主義急進派は反中央政府の革命を煽動し、これに同年8月のラ・グランハ宮殿での軍曹らの反乱が合流した。このクーデタが成功して急進派は政権を奪い、王国憲章は廃止されて、1836年8月13日、カディス憲法が二度目の復活を遂げた。

(4)意義

王国憲章の意義は、その運用過程において、近代的な議院内閣制の輪郭が着実に形成された点に見出される。すなわち、執行権が国王から内閣(とりわけ内閣総理大臣)へと移行し、任命権者である国王のみならず、国会の多数派の信任も、内閣の存立基盤として欠かせないものになっていった。

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